学問の情報保全と「多様性」
最終更新:2025年9月25日
2025年6月16日、学内のある保守系の団体のツイートが炎上した。「日本人による日本人のための大学」というスローガンが「排外主義だ」と批判されたのである。確かに、このような不必要な分断を生む言説には、私も反対である(これが直ちに「排外主義」であるとは考えないが)。
しかし、その批判の中で「学問の場で多様性を担保することは利益しかない」という論調が見られた。この見方には、本当に問題はないのだろうか。本稿は、「排外主義を避けること」と「技術・研究成果の情報保全体制の整備」をどう両立させるかを考えるための問題提起である。
この記事は2025年6月18日初出の記事です。次世代研究者挑戦的研究プログラム(SPRING)が、東京大学発の制度であるという誤認が見つかったので、6月28日に「文 科省所轄」に修正しました。
重要技術の流出懸念
学内に多様な人材が集まれば、多様な視点から議論ができ、学問の発展につながる。この点は否定しない。政府の『第6期科学技術・イノベーション基本計画』でも「国際共同研究・国際頭脳循環の推進」と題して、国境を超えた研究が我が国の研究力の強化につながるとしている。一方で、X(旧Twitter)上で「学問界での多様性は利益しかない」とする意見があったが、それは注意が必要であると考える。特に、重要技術・研究成果の情報漏洩といった見過ごせないリスクがある。
たとえば直近では、東京大学ではなく民間の話だが、次世代潜水艦などに搭載が検討される 全樹脂電池の技術流出危機 があった。これは、中国・華為技術(ファーウェイ)の技術者が日本国内の工場を見学し、機微技術が流出した事案である。東京大学でも、同様のリスクは当然ある。「多様性」の名のもとに誰でも無条件で受け入れることは、セキュリティ・クリアランスの基盤がない限り、不利益を招く恐れがある。
もちろん、東京大学も無策ではない。2020年、先端科学技術研究センターの玉井克哉教授(当時)は 経済安全保障研究プログラム を立ち上げ、大学や企業の情報漏洩リスクの確認・啓発に取り組んでいる。さらに政府も、研究者経由の技術流出をAIで防ぐ実証 を始めた。しかし、対策はまだ十分とは言いがたい。
特に懸念されるのが、中国の国防動員法・国家情報法の存在である。国防動員法は中国人を有事に軍事動員する根拠法、国家情報法は平時・有事を問わず中国政府の情報工作活動への協力を義務づける法律だ。これらの法律は海外在住の中国人にも適用される可能性が指摘されており、東大に留学する中国人留学生が「本人の意思に関わらず」情報漏洩に関与させられるリスクをはらむ。
無論、これによって「留学生を受け入れない」という結論にはならない。重要なのは、他国の法制や施策を正しく理解した上で、それらに耐えうる体制を政府や研究機関が整備して受け入れることだ。むしろこうしたセキュリティ強化が他国の研究機関との信頼性の高い情報共有につながり、国際的な研究・技術開発を推進するであろう。少なくとも、海外研究者や留学生の受け入れは、情報保全の信頼性に裏打ちされていなければならない。
適切な学生支援のあり方
東京大学では、中国人留学生の数は2024年度には3396人となり、16年で約4.7倍に増えている。文部科学省管轄の奨学金制度として、博士課程の学生に年間最大290万円を支給する「次世代研究者挑戦的研究プログラム(SPRING)」がある。最近、この 受給者の3割が中国人留学生 (それを含め4割が留学生)であることが報じられた。
このような中、自民党の有村治子議員は、カナダや米国では留学生の学費が自国学生の数倍であるとし、「日本も自国学生を重視し、外国人留学生に応分の負担を求めるべきだ」と述べた。留学生と日本人学生の間で制度に一定の差を設けることは、排外主義ではないと私は考える。我が国の学問の発展に国際頭脳循環が重要であることは前に述べたが、同時に自国研究者の育成も欠かせない。したがって、日本人の学生に優先的に投資するのも妥当な話ではなかろうか。
東京大学は「ダイバーシティ&インクルージョン」で、誰もが来たくなるキャンパスを目指すとしており、この理念自体は私も共感する部分がある。直近では、米国トランプ政権下でハーバード大学の留学生資格が停止された際に、一時的に留学生を受け入れる可能性 を示していた。この対応も否定しない。しかし、大学や政府がその多様性を重視するあまり「重要情報の保全に寄与すること」や「妥当な学生支援の在り方」が置き去りにされてきたように感じる。
私自身、セキュリティ・クリアランス に詳しくなく、具体策を持っているわけではない。しかし、対策が後手に回れば、大学への信頼を失墜させ、むしろ排外主義的な声を助長することになりかねない。リスクを正確に把握し、納得感のある実効的な情報保全対策を講じることが必要だと考えている。
2025年6月、SPRINGについて文部科学省は「研究奨励費(生活費相当額)支援の対象は日本人学生に限定する」との方針を示した。この措置について、私はそれだけで排外主義的だとは考えないし、直ちに反対する立場でもない。
ただし、今回の対応については、制度設計のバランスを欠いていないかという懸念がある。そもそも、SPRINGによる支援を受けている留学生は、日本国内の留学生(約33万人、2024年度)のうち、わずか1.5%程度にすぎない。国費留学生制度の対象者を含めても、支援対象は全体の約4%程度にとどまる(この点は、Noteの記事でも指摘されている)。また、同様の支援は日本人学生にも用意されており、「外国人が優遇されている」とする見方は、事実に基づいているとは言いがたい。このような状況下で、「生活費支援を日本人学生に限定する」という措置が必要以上に厳しいのではないかという考え方にも、一理がある。
加えて、これまで支援を受けていた留学生に対し、予告なく制度を打ち切るような事態は避けるべきであり、今後の方針について丁寧な説明と移行措置が求められる。
ただし、それでもSPRING制度のあり方がこのままでよいとは思わない。そもそもSPRINGは2021年度に始まった新しい制度であり、今年(2025年)で5年目である。したがって制度に不備があれば見直されるのは、むしろ健全な議論である。さらに、東京大学では近年、留学生の数が増加傾向にあり、このまま推移すれば、SPRINGの支援対象に占める留学生の割合が将来的に5割、6割に達する可能性も否定できない。そうなれば、「日本の将来を担う博士後期課程学生を力強く支援する」というSPRING制度の本来の趣旨から逸脱するおそれがある。
したがって、「生活費支援を日本人学生に限定する」という形ではなく、たとえば「SPRINGによる留学生への支援は全体の4割以内にとどめる」といった上限を設ける形で制度を調整することも検討に値する。
もっとも、理工系や農学部など、留学生の存在が研究活動の継続に不可欠となっている分野が存在することも承知している。ただ、それは裏を返せば、日本人博 士課程の処遇改善が不十分であることの現れでもある。留学生のみを研究力確保の手段と捉えるのではなく、実態を踏まえたバランスの取れた制度設計が求められる。
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STUDY in JAPAN. 2024(令和6)年度外国人留学生在籍状況調査結果 (2025年4月)2025年8月3日閲覧.
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外国人材、現場からは以上です。|柏手真治 note 「外国人ばかり優遇」はほんまなん?奨学金と制度の“真実”を読み解いてみた (2025年6月12日) 2025年8月3日閲覧.
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高市早苗. 国力研究 日本列島を、強く豊かに。(2024年9月) 産経新聞出版.